「非お寺育ちって、やっぱり肩身が狭いのかな」
と思ったことがあります。
作法知らんし、仏教用語知らんし。
でも、私はプラス思考で考えた。
いや 、ちょっとまてよ。と。
肩身が狭いのは、非お寺育ちの側ではなく、そんな空気を未だに出してしまうお寺の側ではないですか、と。
そう思うと、非お寺育ちであることを、引け目に感じる事が日に日に薄れてくることとなりました!
そして、今の時代、それはかなり大きな強みになる。とさえも思うように!
お寺の色々なこと「なんで こうしてるんですか?」って聞くと
「昔からそうだから」
「ずっとこのやり方だから」
「前からこうしてきたから」
こんな返答が返ってくることは少なくない。
はっきり言いますが、ビジネスの世界、いや日本の会社レベルでも、
この返しで人を納得させようとするのは、説明ではなく思考停止である。と判断されるでしょう。
昔から続いてきたことに価値があるのは事実です。
でも、その価値をきちんと言葉にできないなら、
守っているつもりで、ただ惰性を引きずっているだけかもしれません。
伝統を守ることは尊いです。
でも、何も考えず同じことを続けるのは、伝統ではありません。
ただの停止です。
そして厄介なのは、
お寺の世界には
その“停止している状態”を
“伝統を守っている”と都合よく言い換えてしまう空気が、
少なからずあることです。
だから、外から見れば不親切、
初めての人には意味不明、
今の時代に合わせればもっと伝わるはずのことまで、
「これでいい」と処理されてしまう。
その結果どうなるか。
お寺の中では当たり前でも、
外の人には伝わらない。
選ばれない。
足が遠のく。
相談されない。
そして最後に
「最近の人はお寺から離れた」
みたいな話になる。
違います。
離れたのではなく、
伝わる努力を怠ってきた部分があるだけです。
非お寺育ちの私が感じる違和感は、
まさにそこを突いています。
「もっとわかりやすくできるのでは?」
「そのやり方、本当に今も必要?」
「それ、内輪では通じても外では通じないのでは?」
むしろ、その感覚がなければ
今のお寺はどんどん社会とズレていきます。
お寺の中だけで育ってきた人には、
当たり前すぎて見えないことがあります。
閉じた世界の常識は、
その世界の中にいるほど疑えなくなるからです。
だからこそ、非お寺育ちの視点には価値があると思ってます。
遠慮して小さくなる必要なんてないと思ってます。
今多くのお寺に足りていないのは、
むしろそういう外からの感覚です。
今のお寺に必要なのは、
昔と同じことを無批判に繰り返すことでも、
逆に伝統を全部壊して新しくすることでもありません。
必要なのは、
残すべき本質は残し、
変えるべき見せ方や伝え方は変えることです。
でも実際には、
その区別をせずに
「変える=悪」
「疑問を持つ=失礼」
みたいな空気で押さえ込んでしまう場面もある。
それで良くなるわけがありません。
むしろ、そうやって
問いを嫌い、違和感を潰し、
昔の正解だけで今を乗り切ろうとするから、
お寺は苦しくなるのだと思います。
これから必要な力は、古い常識に飲まれず、
「本当にそれでいいのか」を問い直せる力です。
その視点は、
お寺の価値を壊すものではなく、
むしろこれからもお寺が必要とされ続けるために欠かせないものです。
昔からこうだから。
続いてきたから。
それだけで通用する時代は、もう終わっています。
それでもなお、
説明をやめ、考えることをやめ、
変化を拒み続けるなら、
守っているつもりのものごと一緒に
お寺そのものが時代に置いていかれます。
だから、非お寺育ちの私が感じた違和感。
その違和感こそが、
未来のお寺をつくる入口出来るのではないか。。。









